エロス+虐殺【11/19】*1日限定上映/イベントあり

過去の上映作品
[上映日程]11月19日(日)14時30分
*11月19日(日)14時30分からの回の『エロス+虐殺』の上映後、政治学者・アナキズム研究の栗原康さんをお迎えし、アフタートークイベントを開催致します(要予約)

“ 大正時代のアナーキストたちの自由恋愛を想像する若きわれわれ・私 それともあなた ”

鬼才・吉田喜重監督が
自由の先駆者大杉栄の光栄と悲惨を
現代との対話のなかに鮮烈に描く……

[INTRODUCTION]
アナーキスト・大杉栄の衝撃的な半生を前衛的な手法で描いて、自由が政治に圧殺される構図を映像化した力作。1960年代頃の松竹出身の若手監督を中心として、松竹ヌーヴェル・ヴァーグという言葉が使われたことがあったが、そのなかでも最も特異で最も過激なスタイルに突入していったのがこの吉田喜重である。とりわけ、本作はその頂点に位置するもので、男性的なるものの否定と母性のイメージが虐殺の一瞬へと収斂する吉田喜重監督の代表作。大正アナーキズムを呼吸した人物たちと、1970年当時のフリー・セックス志向の風俗が、時間軸・空間軸を超越して同一画面に現れるという斬新な試みに成功している。露出オーバーを意図的に貫いたモノクローム撮影、きわめて精神性の高い音楽も特筆に値する。

[STORY]
一人の若い女性に束帯永子のインタビューが続く「大正十二年関東大震災のさなかに大杉栄と共に虐殺された伊藤野枝、その忘れ形見、魔子さんですね」だが若い女は首を振って答えなかった。(一九六九年三月三日)ホテルのベッドに裸で横たわる永子に畝間が愛撫をくりかえすが、永子の眼は醒めきっている。(大正五年春三月)風に舞う桜の花びらの中を、大杉栄と伊藤野枝が歩いている。二人の肩に散る桜の花は、大杉には同志幸徳秋水らが殺された暗く冷たい春を、野枝には青鞜の運動に感動し、故郷をあとにして新橋駅に降りたった十八歳の春を想い起させた。辻潤をたよって上京した野枝は青鞜社に平賀明子を訪ね、編集部員として採用された。そこで正岡逸子に会った。(一九六九年三月七日)畝間のスタジオ。マッチを丹念に燃やしている和田に「私に火をつけられる……」と永子はたずねた。刑事が訪れ、永子を売春容疑で訊問した。(大正五年二月十一日)辻潤は婦人解放にはげむ野枝の行動力を高く評価しながらも、育児ひとつ出来ない野枝に、不満を抱いていた。社会主義運動が行き詰ったこの時代、大杉はそれをつき抜けるものとして、恋愛を考えていた。妻保子があり、東日の女流記者正岡逸子にうつつをぬかし、そのうえ野枝との恋愛関係。同志たちは口をそろえて悲難した。(大正五年三月末)大杉は、正岡逸子に野枝と恋愛関係にあることを報告。「僕たちの恋愛も平等と自由の獲得のうえで生きる」と大杉の態度を責める逸子に大杉は言った。(一九六九年三月三十一日)永子は刑事に自分が売春を仲介したことを話した。それは私を容疑者にして、私に目的をくれたからだと、いうのである。(大正五年四月某日)野枝の心は辻への執着と大杉との新しい恋に引きさかれていた。野枝の義妹千代子は辻に同情していた。野枝はある日、義妹千代子と辻が抱き合っているのを見てしまった。野枝は口惜しさと安堵が入り混った奇妙で平静な感情の中にいた。辻とも大杉とも別れて一人で考えようと思いたった野枝だが、逸子は二人から自由になって、自活することなど出来ないときめつけた。(一九六九年四月一日)和田は永子に別れようと話しかける。和田は一冊の本を読み出した。「内由魯庵、思い出す人々、最後の大杉」大杉と野枝の虐殺された場面が浮かびあがってゆく。(大正五年十一月六日)野枝は大杉に従い、葉山海岸に近い日蔭の茶屋に入った。大杉を疑っていた逸子がその夜訪れた。大杉にとって、逸子と野枝は今や、かつて熱情に燃えた同志としての関係よりも、異性としての関係の方がまさり、習俗的なものになりかかっていた。

『エロス+虐殺』
[1970年/日本/シネマ・スコープ/モノクロ/165分]
監督・脚本:吉田喜重
脚本:山田正弘
撮影:長谷川元吉
音楽:一柳慧
出演:岡田茉莉子、細川俊之、楠侑子、高橋悦史
©️現代映画社

吉田 喜重(よしだよししげ)

1933年2月16日生まれ、福井県出身。東京大学文学部仏文学科卒業後の1955年、松竹に入社。木下惠介などの助監督を経て、1960年に「ろくでなし」で監督デビューを果たす。のちに妻となる岡田茉莉子主演の「秋津温泉」、従来の労働者映画への批判を込めた「嵐を呼ぶ十八人」などを発表し、大島渚、篠田正浩らと並んで松竹ヌーベルバーグの1人として注目を集めた。1964年の「日本脱出」の編集を巡って松竹と対立し退社。独立プロダクション・現代映画社を設立したのち、日本近代批判3部作と呼ばれる「エロス+虐殺」「煉獄エロイカ」「戒厳令」など日本映画の前衛を牽引する独自のスタイルで映画を撮った。1973年以降は映画を離れ「美の美」などテレビドキュメンタリーの制作に従事する。1986年の「人間の約束」で13年ぶりに劇映画に復帰し、芸術選奨文部科学大臣賞(映画部門)を受賞。1988年には初の時代劇「嵐が丘」がカンヌ国際映画祭コンペティション部門に正式出品された。2002年には「鏡の女たち」がカンヌ国際映画祭の特別招待作品に選ばれ、翌年にはフランス政府より文化芸術勲章オフィシエが贈られる。2008年には仏パリのポンピドゥーセンター、2010年には東京国立近代美術館フィルムセンターで大規模な回顧上映が開催された。執筆活動も行っており、1999年には著書「小津安二郎の反映画」で芸術選奨文部大臣賞(評論その他部門)を受賞。2020年には、10年以上にわたって執筆した歴史長編小説「贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争」を上梓した。2022年12月8日、肺炎のため死去。89歳だった。

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