5月の PICK UP MOVIE !『来し方 行く末』 “誰もが 主人公として生きてきた”

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誰もが 主人公として生きてきた

 北京に暮らすウェン・シャンは、弔辞を書く仕事をしている。葬儀やお別れ会などで故人を偲んで読み上げられるあの文章だ。ほんとうは、彼は脚本家になりたかったのだが。
 とは言えウェン・シャンの弔辞は評判がよく、次々に依頼が舞い込む。忙しくなっても彼の仕事ぶりは変わらない。遺族や友人らから丁寧に話を聞き取り、亡くなった人の物語を紡ごうとするのだ。すると、思わぬことが見えてくる。
 思い出話などたいていは、他人にとっては取るに足らないものだ。しかも親しい間柄であればあるほど、自分本位の偏ったものでもあるようだ。それに、どうやら身内や友人を亡くした人は、自分の感情を整理したり喪失感を癒したりするために、ウェン・シャンと話をしたがっているようにも見える。
 この作品では、ウェン・シャンが弔辞を書いた5人ほどのことが語られる。それぞれにまつわるささやかなエピソードを頼りに、ウェン・シャンは故人の人物像を探っていく。そうするうちに、誰かのふとした思い出話から故人の意外な側面が見え始める。故人は誰もが、それぞれに複雑な来し方があり、豊かな感情世界を持って生き、亡くなった。一人一人がくっきりとした個性的な人として立ち現われてくる。これこそが、物静かなウェン・シャンを淡々と追っていくこの作品の、最大の面白さだ。
 ところでウェン・シャンは、家賃の安い住居を求めて北京の外れに住むようになったという。40歳間近の独り身のはずのウェン・シャンだが、彼の住まいには若い男の同居人シャオインがいる。ウェン・シャンはどうやら、シャオインには日々の出来事を詳しく話しているようで、シャオインはウェン・シャンの書く弔辞にまでずけずけと口を出す。いったい彼ら二人は何をしようとしているのか。
 ある日若い女性がウェン・シャンを訪ねてきたことが、思わぬ波紋を巻き起こす。彼女はウェン・シャンが弔辞を書いたガンミンのネット上の友人で、会ったこともないガンミンのことをもっと知りたくて、とうとうウェン・シャンの住まいまで押しかけてきた。この出来事が、ウェン・シャンとシャオインに、何を考えさせたのだろうか。人と関わるということ、家族を持つということ、仕事をするということ。自分の来し方行く末にさまざまな思いを巡らせずにはいられなくなる、味わい深い佳作だ。

田村志津枝
ノンフィクション作家。一方で大学時代から自主上映や映画制作などに関わってきた。1977年にファスビンダーやヴェンダースなどのニュー・ジャーマン・シネマを日本に初めて輸入、上映。1983年からホウ・シャオシェンやエドワード・ヤンなどの台湾ニューシネマ作品を日本に紹介し、その後の普及への道を開いた。

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5月の PICK UP MOVIE !『来し方 行く末』 “誰もが 主人公として生きてきた”

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『来し方 行く末』

©Beijing Benchmark Pictures Co.,Ltd

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