2月の PICK UP MOVIE !『黒の牛』“大自然と共に生きるということ”

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大自然と共に生きるということ

 その昔、山が火事で焼けてしまい、山から里に下りてきた男がいた。男はあたりを見回し、そのたたずまいをじっくりと眺める。畑から食べ物を得て、人々と交わり、里での暮らしを始める。大自然のなかにぽつりと存在して静かに生きていく男を、台湾の俳優リー・カンション(李康生)が演じている。
 リー・カンションのデビュー作「青春神話」(蔡明亮監督 1992年)の印象は鮮烈だった。繁栄を極める消費社会・台北で、現実感覚を掴めないまま彷徨する若者。この作品は蔡監督にとってもデビュー作だが、若者たちの凄まじいまでの閉塞感を、深層心理の不可思議にまで眼差しを向けて、冷徹に描き切る力量に感動したのを覚えている。その後も2人は共に多くの作品を世に送り出したが、その過程で磨かれたリー・カンションの神秘性を帯びた演技力が、「黒の牛」に見事に結実している。
 本作の蔦哲一朗監督は、これまでも人間が大自然のなかでどう生きるのかを見つめてきた。この作品では、山を下りて里で世俗に染まらざるを得なくなった男が、自然との関係を取り戻して生きようとする姿を描いている。そこで取り入れたのが美しい黒い牛だ。白黒フィルムで撮られた牛の動きが、驚くほどさまざまなことを語りだすさまは、まさに映画の魔術とさえ言える。
 さらに牛と人間、人間と自然、人間と宇宙というテーマを深く語るために監督が取り入れたのが、「十牛図」という禅の教えだ。これは悟りに至るまでの過程を10枚の絵だけで表したものだが、蔦監督は、これは万人の人生に当てはまり、世界や宇宙の真理を語っていると思ったという。
 大自然のなかにぽつりと存在する男。彼が牛を探し、牛と出会い、それを飼いならし、共に畑を耕し、人と交わり、そして無に還っていく。そのありさまをこの作品はじっくりと追っている。少ないセリフ、生身の牛、抽象化された里の人々の営み、切り詰めた音と音楽、そして何よりも35ミリフィルムと70ミリフィルムでとらえた圧倒的に美しい自然。見終えたとき、人智を超えた何かに触れた感じを覚え、自分の人生に深く思いをいたしたくなる。稀に見る秀作だと思う。

『黒の牛』
[2024年/日本・台湾・アメリカ/スタンダード&シネマスコープサイズ/白黒&カラー/5.1chサラウンド/114分]
監督・脚本・編集:蔦哲一朗 
音楽:坂本龍一
出演:リー・カンション、ふくよ(牛)、田中泯、須森隆文、ケイタケイ ほか
配給:ALFAZBET/ニコニコフィルム/ムーリンプロダクション
© NIKO NIKO FILM / MOOLIN FILMS / CINEMA INUTILE / CINERIC CREATIVE / FOURIER FILMS

田村志津枝
ノンフィクション作家。一方で大学時代から自主上映や映画制作などに関わってきた。1977年にファスビンダーやヴェンダースなどのニュー・ジャーマン・シネマを日本に初めて輸入、上映。1983年からホウ・シャオシェンやエドワード・ヤンなどの台湾ニューシネマ作品を日本に紹介し、その後の普及への道を開いた。

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『黒の牛』

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