8月の PICK UP MOVIE !『黒川の女たち』“苛酷な体験を言葉にして歴史に刻み 穏やかな日々を取り戻す”

苛酷な体験を言葉にして歴史に刻み 穏やかな日々を取り戻す
日本は中国東北部に軍事侵略し、1932年に満州国を建国した。だが13年後、日本の敗戦とともに満州国は瓦解してしまう。日本の戦況不利を把握していた関東軍(日本陸軍の満州駐留部隊)は逸早く撤退してしまった。置き去りにされた民間人は敗戦前後の混乱に巻き込まれ、悲惨な体験をすることとなった。
岐阜県の黒川開拓団約600人は、国策の大量移民計画に従う形で半強制的に集められ、1942年に満州に渡った。開拓団とは名ばかりで、実際には中国人から強権的に奪った豊かな農地が与えられた。広大な畑での作業は楽しかった、と元開拓団員の女性は言う。
だが日本の敗戦によって事態は一変した。終戦直前にソ連軍が満州に侵攻、日本の支配から脱した中国人による襲撃。開拓民らはなすすべもなく、集団自殺に追い込まれた例も少なくない。そんななか、黒川開拓団の幹部はソ連軍に保護を求めた。
保護する代償としてソ連軍が求めたのは、「性接待」だった。黒川開拓団は、なんということか、17歳以上の未婚女性15人を差し出すことに決めた。自分たちが生きて日本に帰るために。実際に敗戦から1年後、黒川開拓団451人は帰国を果たした。
けれども、「帰国後の方がつらかった」と彼女たちは語る。集落の人々は性接待の事実には口を閉ざす一方で、彼女らに容赦ない差別・偏見の目を向けた。だが驚くべきことに、そんな苦境のなかで彼女らの密やかな闘いは続いていた。か細い糸を手繰り寄せるように、苛酷な体験を伝える道を探ったのだ。「なかったことにはできない」のだから。彼女らが公的な場で事実を話すことができるまでに、68年もの月日が流れていた。
自らの性被害を語った彼女たちの言葉は、事実を封印してきた男たちをも動かした。自分の親たちが、知り合いの若い女性たちを性暴力の犠牲として差し出した、という重い事実。やってはならないことをなぜやったのかを、克明に記録に残そうと彼らは力を尽くした。
集落では、性接待で命を落とした4人を悼んで、1982年に乙女の碑が建立された。そこには由来は何も書かれていない。2018年、ここに碑文が書き加えられた。集落の人々が推敲を重ねて書き上げたものだ。誰が悪かったのか、なぜああいうことが起きたのか。日本という国が過去の戦争をきちんと総括もしない一方で、黒川はそれをやり遂げた。女たちの晴れ晴れとした笑顔が心に残る。そして考え抜いた彼女たちの一言一言が、重い。
田村志津枝
ノンフィクション作家。一方で大学時代から自主上映や映画制作などに関わってきた。1977年にファスビンダーやヴェンダースなどのニュー・ジャーマン・シネマを日本に初めて輸入、上映。1983年からホウ・シャオシェンやエドワード・ヤンなどの台湾ニューシネマ作品を日本に紹介し、その後の普及への道を開いた。
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8月の PICK UP MOVIE !『黒川の女たち』“苛酷な体験を言葉にして歴史に刻み 穏やかな日々を取り戻す”
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『黒川の女たち』
©テレビ朝日