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上田映劇の歴史

 

上田映劇
大正6年(1917年)創業

 

上田映劇のある場所は、昔から上田の娯楽の拠点でした。明治時代には末広座という芝居小屋があり、そこに大正6年に建てられたのが上田映劇の前身の「上田劇場」です。当時1階には桟敷と花道があり、回り舞台仕様で歌舞伎座と同じようなつくりをしていました。天井は格天井と呼ばれ、関東大震災で焼けてしまう前の帝国劇場と同じつくりをしています。その天井は、今も残り、オープンした時にお祝いとして帝国劇場の専務取締役山本久三郎氏からいただいた書面も残っている。  上田劇場は昭和に入り映画が中心に上映されるようになると「上田映画劇場」と名称を変え、現在の上田映劇となりました。全盛期には年中無休2~3本立て入替なし、上映期間は一週間に区切って毎週新しい番組を上映し、2階席は割増料金を取ってメイドがコーヒーを給仕していました。切符売場も東西2ヵ所、切符を売る人もぎる人、映写技師2名、清掃人等常時5~6人の従業員がつめていたようで、当館の2階に住み込んで働く方もいたそうです。
平成7年には、もともとあった舞台を有効に使うため、ライブや演劇が出来るように改装を行いました。しかし、全盛期のころに比べるとお客さんの入りは次第に減り、定期上映を続けていくことが困難に。市内に大型シネコンが参入したことも影響し、これまで地元の方に愛されてきた上田映劇は平成23年4月をもって定期上映を終了しました。
しかし、上田映劇を必要とする人々は上田映劇の廃館を許さず、特別上映やイベント開催などによって存続し続けてきましたが、老朽化が進み、特に文化的価値のある各天井を傷つける雨漏りは深刻な問題となっています。現状のままでは「物質的に」存続が危ぶまれる状況が続いています。
また、近年、ここ上田市は全国有数の「ロケ地」として脚光を浴び、年間200作品以上のロケが行われ、映画のロケも50本を超える「映画の街」として注目されています。平成25年には劇団ひとり監督、大泉洋主演による映画『青天の霹靂』の撮影が当館にて行われ、その際、昭和40年代の浅草を忠実に再現した素晴らしいセットがそのまま残されたことで、ロケ地としても有名になりました。今も多くのファンが訪れています。

上田映劇の再出発

平成28年12月、中央商店街に位置する歴史的価値を持つ上田映劇を復活運営及び恒久的保存していくことで、名実ともに「映画の街上田」のシンボルとして再起動させていく必要があると、「上田映劇再起動プロジェクト」がスタート。
平成29年4月より、「上田映劇再起動準備会」として、創立100周年を記念し、約6年ぶりとなる定期上映を再開。この準備期間における、上映事業での観客動員数は、広報宣伝活動をほとんどしていないにも関わらず、予想をはるかに超え、この地域における「映画文化」「映画館としての重要性」が顕在化しました。名実ともに、この映画館が生み出してきた文化芸能の息吹を吹き返すために、「上田映劇再起動準備会」は法人設立を申請。
平成30年、信州上田地域にとって歴史的および文化的な財産のひとつでもある劇場「上田映劇」を文化の拠点として活用しつつ、上田映劇の保存および、コミュニティシネマの運営全般と文化芸術を通しての教育、人材の育成・まちづくり等の事業を行い、映画・映像文化を中心とした地域の芸術文化活動の活性化に寄与することを目的に、「特定非営利活動法人 上田映劇」が誕生。
現在に至る。

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